行き先のない旅と、年の瀬のポスト─心が少し前へ進んだ日

暮らしの深呼吸

動かなくても、旅は始まる

朝の光は、冬のはじまりらしい淡さを帯びて、部屋の奥までそっと入り込んできました。
強く主張するわけでもなく、ただ「ここにあるよ」と知らせるような光。
白い壁に落ちる影は輪郭がやわらかく、時間そのものが少し緩んだように感じられます。

窓辺に置いた小さな観葉植物の葉先が、わずかに揺れて光を返すたび、胸の奥で冷えていた何かが、ゆっくりとほどけていくのを感じました。

「今年も、もうすぐ終わるんだな」

その言葉は、達成感とも後悔とも違う場所から浮かんできます。
一年という時間を、立ち止まりながらも歩き切ったあとの、深く長い息継ぎのような感覚。

遠くへ行く予定はありません。
それでも、心が静かに動く日があるなら、それはもう、立派な旅なのだと思うのです。

年の瀬の、特別な予定のない一日。
行き先のない旅が、静かに始まりました。

高額医療費請求を整える-年末の静かな儀式

机の上には、整えた封筒と申請書類が並んでいました。
高額医療費支給申請。
私にとってこれは、年末が近づいたことを知らせる、小さな目印のような存在です。

書類を一枚ずつ確認し、数字を確かめ、日付を書く。
その作業をしながら、「治療を続けている」という事実と、否応なく向き合うことになります。

正直に言えば、気持ちが明るくなる作業ではありません。
身体のこと、これからのこと、考えすぎないようにしてきた不安が、紙の上に、静かに並べられていくような感覚。

それでも、すべてを書き終え、封筒に書類を揃え、宛名を書いて封をするその瞬間、胸の奥に小さな灯りがともるのを、私は知っています。

それは
「今年も、年末年始を迎えることができた」
という、声に出さない誇り。

治療は終わらない。
寛解という言葉には、まだ及ばない。
それでも、こうしてまた年末にこの書類を整えられたことは、確かに前へ進んだ証であり、私にとっての小さな希望なのです。

年賀状を書くという選択-手書きが残す温度

年賀状を書く時間は、私にとって少し特別です。
ペンを持つと、不思議と相手の顔が浮かび、その人の一年に、自然と思いが向かいます。

元気にしているだろうか。
無理をしすぎていないだろうか。
そんな問いが、文字になる前に、胸の奥をよぎります。

連絡手段はいくらでもある時代。
「年賀じまい」をする人が増えたことも、よく分かります。
それでも私は、生きている限り、年賀状を書き続けたいと思っています。

数分のあいだ、誰かのことだけを考える時間。
その行為そのものが、私にとっては心を整える、小さなリトリートなのです。

ポストの前で、年末を実感する-赤い箱の前で立ち止まる

封筒を手に外へ出ると、冷たい空気が頬に触れました。
思わず深呼吸すると、肺の奥まで澄んだ冬の空気が入り込み、身体の輪郭が少しはっきりするようでした。

歩き慣れた道。
玄関先のリース、足早に行き交う人たち、遠くから聞こえる笑い声。
どれも毎年変わらないはずなのに、今年は少し違って見えます。

赤いポストの前に立つと、「年賀状」という文字が目に入りました。
その三文字に、一年分の時間がぎゅっと詰まっているように感じます。

投函口に封筒を差し込むと、紙が奥へ吸い込まれていく感触が、指先に残りました。
「今年も、ここまで来た」
そう思いながら、私はひとり、ゆっくりと息を吐きました。

昔の仲間とのお疲れ会-変わらない一皿が、私たちを元の席へ連れ戻す

夜には、年末恒例のお疲れ会がありました。
かつて航空会社で共に働いていたときの仲間たちと、年に二度、夏と冬に集まる会。
いつの間にか、それは単なる飲み会ではなく、
「今年もここまで元気でいたね」と互いを確かめ合う、静かな儀式のような存在になっています。

二十年前、この会には百人以上が集まっていました。
フロアを埋め尽くす制服姿、立ったまま笑う人、
グラスを片手に行き交う声と声。
あの頃の私たちは、忙しさの中にいながら、
まだ「失う」という感覚を、どこか他人事のように思っていた気がします。

今、集まるのは三十人ほど。
数が減ったことに、寂しさがないと言えば嘘になります。
けれど、不思議と空気は軽く、静かで、あたたかい。
それぞれが、仕事や家族、病気や別れを経験し、
もう無理に笑わなくていい関係になったのだと思います。

会場は変わらず、名家 華中華。
この店に通い続ける理由は、料理の美味しさだけではありません。
ここには、時間が流れても、何も急かさずに受け止めてくれる空気があります。

やわらかな照明に照らされたテーブル。
湯気と香辛料の香りが混じり合う、少し重たい空気。
ふとした瞬間に、かつての台湾人オーナーの笑顔が思い出されます。
もう何年もお会いしていないのに、
この店に来ると、なぜか「今日も見ている」ような気がするのです。

料理が次々と運ばれ、
それぞれが別の席に移って、久しぶりの近況を語り合います。
仕事の話、親の話、身体の話。
誰かの声が少し低くなると、周囲も自然と声を落とす。
そんな年齢になったのだと、静かに実感します。

そして──
その時が来ます。

大皿に盛られた麻婆豆腐が、テーブルに置かれた瞬間。

真紅の油が照明を受けて艶やかに光り、
湯気とともに立ち上る、花椒と豆板醤の香り。
鼻の奥が、つんと刺激されるあの匂い。
「あ、来た」
誰かが、少しだけ声を弾ませます。

不思議なことに、
それまで別の席で話していた人たちが、
この時だけは自然と自分の席へ戻ってきます。
まるで合図があったかのように。

スプーンですくうと、
豆腐は形を保ったまま、ふるりと揺れ、
その下から、濃厚な餡がゆっくりと絡みつきます。
一口目。
舌に触れた瞬間、まず熱。
次に、辣の鋭さ。
そして少し遅れて、痺れるような麻が追いかけてきて、
最後に、驚くほど深い旨みが静かに残る。

ただ辛いだけではない。
この麻婆豆腐には、記憶を呼び起こす力があります。

「これ、これ」
「変わらんな~」
「やっぱり、ここに来たらこれやな」

誰かがそう言い、
別の誰かは、何も言わず、
ただ少し懐かしそうな顔で、ゆっくりと咀嚼しています。

北京ダックが出たときよりも、
この一皿の方が、確実に場がひとつになる。
それはきっと、
この麻婆豆腐を、
私たちが人生のいくつもの場面と一緒に食べてきたから。

若かった頃。
仕事に追われていた頃。
うまくいかなくて、ここで愚痴をこぼした夜。
何かを失ったあと、無言で食べた夜。

変わらない味が、
変わってしまった私たちを、否定せずに受け止めてくれる。
「それでも、ここに戻ってきていい」
そう言われているようでした。

食べ終えたあと、
誰かがふっと息をつき、
「今年も、お疲れさまでした」
そう言いました。

席を立つ前、
互いに目を見て、
「よいお年を!」と声を掛け合います。
その言葉の裏に、
「来年も、またここで会えますように」
という願いが、自然と重なっていることを、
誰もが分かっていました。

翌朝の余韻と、一年の終わりに向けて|心の位置が少し前へ

翌朝、目を覚ますと、
心の奥に残った温度が、まだ消えずにありました。

カーテンを開けると、冬の光がゆっくりと部屋を満たします。
白湯を注ぐと、湯気が静かに立ち上り、
昨夜の余韻が、ようやく身体に追いついてくるようでした。

遠くへ旅したわけではありません。
けれど、確かに心の位置が、ほんの少し前へ進んだ朝。

治療を続け、
書類に封をし、
年賀状を書き、
昔の仲間と笑い、
変わらない味に背中を押される。

その一つひとつが、
次の旅へ向かうための、小さなエンジンなのだと思います。

旅は、移動距離ではなく、
心が動いた分だけ、深くなるもの。

来年もまた、この道を歩いていくでしょう。
赤いポストの前に立ち、
「よいお年を」と言える場所へ向かう旅を。

生きている限り、旅は終わらない。
その事実を、静かに胸に抱きながら、
私は新しい一年へ向かう準備をしています。

店舗情報

名家 華中華(台湾料理・大阪)

公式サイトはこちら

参考資料


厚生労働省|高額療養費制度について


日本郵便|年賀状の歴史

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