半世紀ぶりの別府で、湯けむりに立ち止まる|杉乃井ホテル宙館と変わってしまった街

旅先の風景

半世紀ぶりの別府で、もう一度「湯けむり」に包まれて|杉乃井ホテル宙館と、今の私にちょうどいい旅

一年の終わり、静かに疲れが顔を出すとき

一年の終わりが近づくと、心や体の奥のほうに、言葉にならない疲れが溜まっていることに気づくことがあります。
それは、誰かに心配されるほどの不調ではなく、日々の生活はこなせてしまう程度のもの。
だからこそ、自分でも見過ごしてしまいやすい疲れです。

忙しさの中では感じないのに、
ふと立ち止まった瞬間だけ、静かに輪郭を持って現れてくる。
今年もまた、そんな感覚が、ある日突然、私の前に現れました。

「少し、整えたい」
前向きになろうとするでもなく、
何かを頑張る理由を探すわけでもなく、
ただそう思えたことが、ひとつの合図だったように思います。

年末という時期は、不思議なものですね。
一年を振り返る気持ちと、もうこれ以上は頑張りすぎたくないという現実が、同時にやってきます。
気づけば、心も体も「一区切り」を求めている。

私自身は治療を続けながらの生活で、家族もまた、定期的な通院が欠かせません。
遠くへ行くことや、長く滞在する旅は、今は簡単には選べなくなりました。

それでも、「今年もお疲れさま」と、家族で労わり合う時間は持ちたかったのです。
特別なことをしなくてもいい。
ただ同じ場所で、同じ時間を、静かに過ごせればいい。

1泊2日。
移動の負担が少なく、無理をしないこと。
そう考えていく中で、自然と浮かんできたのがかつて家族で訪ねた別府でした。

最後に訪れたのは、もう半世紀近く前のこと。
記憶の中の別府は、湯けむりが街の輪郭をやわらかく包み、人の気配と温泉の匂いが混ざり合う場所だったように思います。

懐かしさなのか、安心感なのか。
理由を言葉にする前に、「ここなら行ける」という感覚だけが、静かに残りました。

半世紀という時間と、選び直した旅先

半世紀という時間は、人の人生だけでなく、街の姿も大きく変えます。
高度経済成長期、別府は団体旅行や社員旅行の定番として、多くの人で賑わっていました。

当時の別府は、「温泉に来た」というよりも、「温泉の中に街がある」ような場所だった記憶があります。
浴衣姿の人が行き交い、夜遅くまで明かりが消えない通り。
どこからともなく立ち上る湯けむりが、日常と非日常の境目を曖昧にしていました。

時代が流れ、旅の形も変わりました。
団体から個人へ。
消費から体験へ。
そして今は、「整えるための旅」を求める人も増えているように感じます。

観光地に求められる役割も変わり、地方都市はそれぞれに課題を抱えるようになりました。
別府もまた、その例外ではありません。

ニュースや数字としては知っていたものの、実際に街を歩くのは久しぶりでした。
シャッターの下りた店や、静かな通りを目にすると、胸の奥が少しだけ締めつけられるような気持ちになります。

けれど同時に、別府には他の街にはないものが、確かに残っているとも感じました。
地面の下から、今も変わらず湧き続ける温泉。
これは、時代が変わっても簡単には失われないものです。

今回の旅は、「どこか遠くへ行きたい」という衝動から生まれたものではありません。
今の私たちの体調や生活の条件の中で、「無理なく行ける場所」を選び直した結果でした。

遠くへ行けないから別府なのではなく、
制限がある今だからこそ、別府がちょうどよかった。
そんなふうに思えたのです。

杉乃井ホテル宙館と、静かになった別府

今回宿泊したのは、杉乃井ホテル 宙館です。
かつて家族旅行で泊まったことのある場所に、もう一度戻ってみたいと思いました。

新しく整えられた宙館は、以前の賑やかな大型リゾートの印象とは少し違い、落ち着いた空気をまとっていました。
館内は広いのに、不思議と騒がしさがありません。

音が抑えられ、照明はやわらかく、視線が自然と外へ向かうつくり。
空間そのものが、「急がなくていい」と伝えてくるようでした。

部屋に入ると、大きな窓の向こうに別府の街と海が広がっていました。
夕暮れの光が街全体を包み込み、湯けむりがゆっくりと立ち上っています。

「ずいぶん、静かになったね」
そんな言葉が、ぽつりとこぼれました。

それは、寂しさだけを含んだ言葉ではなかったように思います。
人が少ない分、時間に余白がある。
呼吸がしやすい空気でした。

温泉に向かい、湯に身を沈めます。
湯の重み、温度、肌にまとわりつく感触。
張りつめていたものが、少しずつほどけていくのがわかりました。

無理に元気にならなくてもいい。
今の状態のままで、ただ温まればいい。
そんなふうに思えた時間でした。

翌日、別府の街を歩きました。
記憶の中の賑やかな通りには、静けさが広がっています。

正直に言えば、「衰退」という言葉が頭をよぎらなかったわけではありません。
けれど、湯けむりは今も変わらず立ち上り、路地には温泉の匂いが残っています。

高崎山にも足を運びました。
かつての象徴的な存在がすでにいないことを知り、
時間の流れを否応なく感じます。

それでも、斜面を駆け回る猿たちは、今日も変わらず生きていました。
消えたものと、続いているもの。
その両方が、同時に存在している光景でした。

癒しとは、元に戻ることではないのかもしれない

今回の別府旅で感じたのは、癒しとは「昔に戻ること」ではないのかもしれない、ということでした。

変わってしまった街を見ると、寂しさを覚える。
それは、とても自然な感情です。

けれど、人もまた、同じように変わっていきます。
体力も、生活も、価値観も、少しずつ形を変えていく。

昔の自分に戻りたいと思うことがあっても、完全に戻ることはできません。
だからこそ、今の自分を前提に、どう整えていくかが大切なのかもしれません。

癒しとは、失われたものを取り戻すことではなく、
変わった自分を、そのまま認めてあげる時間ではないか。
そんなふうに思えた瞬間でした。

別府の静けさは、かつての賑わいを知っているからこそ、より深く心に沁みました。
それは衰退というより、静養や成熟に近いものにも感じられます。

もしあなたが、少し立ち止まりたいと感じているのなら、
無理をしない旅、背伸びをしない選択も、ひとつの答えかもしれません。

「旅の基準」が変わったことに、ようやく気づいた

今回の別府旅を振り返ってみると、
私は「旅の仕方」そのものが、いつの間にか変わっていたことに気づきました。

かつては、せっかく行くのだから、
できるだけ多くの場所を巡り、見どころを逃さず、
時間いっぱい動くことが「いい旅」だと思っていました。

移動が大変でも、多少疲れても、
それが旅なのだと、疑いもせずに受け入れていたのです。

けれど、今の私は違います。
体調や生活の事情を考えると、
無理のある行程は、楽しさよりも負担のほうが大きくなってしまう。

早朝から夜まで詰め込んだスケジュールは、
帰宅後の疲労を長引かせる原因にもなります。

だからこそ、
「どれだけ楽しめたか」よりも、
「どれだけ穏やかに過ごせたか」が、
旅の満足度を左右するようになりました。

別府で過ごした時間は、
その感覚をはっきりと教えてくれました。

観光地を急いで回らなくても、
予定を詰め込まなくても、
温泉に浸かり、窓の外を眺め、
同じ景色を家族と共有するだけで、
心は十分に満たされていきます。

何かを「達成」しなくても、
そこに「いる」こと自体が意味を持つ。
そんな旅の形が、今の私にはちょうどよかったのです。

旅は、非日常を楽しむためのものだと、
思われがちかもしれません。

けれど、必ずしも刺激や変化が必要なわけではありません。
今の自分に合った速度で、
今の体と心に無理のない距離を選ぶこと。

それもまた、立派な旅の選択なのだと、
今回の別府滞在は、静かに教えてくれました。

まとめ-今の私と家族に、ちょうどいい別府

半世紀ぶりに訪れた別府は、記憶の中の別府とは違っていました。

賑わいは減り、街は静かになり、時間の流れをはっきりと感じさせます。
けれど、湯けむりは今も立ち上り、温泉は変わらずそこにあります。

今回の旅で、すべてが回復したわけではありません。
それでも、「ここまででいい」と思える地点に、一度立ち止まることはできました。

今の私には、かつての賑やかな別府よりも、
この静かな別府のほうが、ちょうどよかったように思います。

また疲れたときには、きっとここに戻ってくるでしょう。
湯けむりの中で、変わっていく自分を、そっと確かめるために。

今回の別府滞在や、宿泊したホテルについての詳細は、
下記の公式情報も参考になります。

別府という街の今を知るための資料として、あわせて掲載しておきます。

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