安土城跡で心がほどけた日——大手道・天主跡・蛇石伝説を歩きながら知った信長の未来都市

旅先の風景

安土城跡で心がほどけた日——大手道・天主跡・蛇石伝説を歩きながら知った信長の未来都市

仕事や人間関係のちいさなつまずきが積み重なり、胸の奥がふさがっていた頃。
前向きな言葉すら耳に入らなくなって、「どこか遠くへ行きたい」とだけ思っていたあの日。
ふと浮かんだのが、なぜか安土城跡でした。

天主は焼け落ち、石垣と礎石しか残らない“幻の城”。
それなのに「ここへ行かなければ」と、静かな引力にそっと触れたような気がしたのです。

当時はまだ、現在は閉鎖されている百々橋口から登ることができました。
観光地というより、一人で山に祈るように入っていく時間。その感覚が、今も胸に残っています。

百々橋口から始まる“寺の気配”——二王門と三重塔が迎えてくれる

百々橋口から歩きはじめると、すぐに二王門三重塔が姿を見せます。
石段の上にそっと立つ二体の仁王像は、苔むした木々の匂いの中で、まるで呼吸をしているかのよう。
城に来たはずなのに、お寺の静けさに包まれる——そんな不思議な導入です。

大手道の石段には、僧坊の石仏や墓石が転用されています。
比叡山焼き討ちの印象から、信長公は「仏も恐れぬ無神論者」と言われがちですが——。

現地を歩くと、その単純なイメージがすっと消えていきます。
城内には寺を置き、信長公自身には竹生島詣での逸話も残っています。
破壊と祈り、その両方を抱えた複雑な人物像が、安土山の空気には今も静かに息づいているのです。

大手道は“ただの石段”ではなかった——石仏・石垣・城下町の呼吸

大手道の石段は、一段一段が大きくて、足を上げるたびに体の芯まで響くような重みがあります。
その重さは単なる「脚力の負荷」ではなく、当時の人々の息づかいが積み上がったような重み。
石仏の断片が埋め込まれた段を踏むたびに、なんとなく姿勢が自然と正されるのです。

そして道の両側には、重臣たちの屋敷跡が連なっていました。
「ここに暮らしがあったのだ」と思うと、ただの遺跡ではなく生活の地層を歩いている感覚になります。

朝の光が木々の間から差し込むと、石段の影がやわらかく伸びていく。
その光景は、まるで城下の朝が静かに蘇る瞬間のようでした。

安土城の石垣に息づく穴太衆の技——私が“石”に恋をした理由

安土城を歩くと、どうしても足を止めてしまう場所があります。
それが、岩肌の呼吸まで伝わってくるような石垣です。

安土城の石垣は、近江国の穴太衆(あのうしゅう)によって積まれたもの。
隙間をほとんど見せず、それでいて自然石の“個性”を生かしきる独特の石積みは、
まるで大地と対話しながら組み上げた芸術作品のようでした。

この穴太衆の技術は今も受け継がれていて、
坂本にある(株)粟田建設さんでは、なんと十五代目が石積みの技を伝承しているのだそうです。
石をただ積むのではなく、「どの石がどこへ行きたがっているか」を感じるように置いていく——
そんな言葉すら聞こえてきそうな精緻で温かい仕事です。

実は私、石垣が大好きすぎて、かつては彦根城・熊本城・津山城など、
修復工事まで見学に行ったほどの“石垣沼”にどっぷり浸かっていた時期があります。
天守より、門より、石垣のほうがじっと見ていて飽きない。
そんな自分に気づいたとき、「あぁ本当に私は石垣が好きなんだな」としみじみ思いました。

石と石がぴたりと噛み合う瞬間を想像すると、胸の奥がすっと熱くなる。
そのおかげか、私は空間認識の能力が妙に高いらしくて、
スーパーの詰め放題では、袋の形や食材の角度が手に取るように見えてしまうのです。
(あの時の穴太衆が、こっそり後ろで舵を取ってくれているのかもしれません)

安土城の石垣に触れると、何百年前の職人の呼吸や、
石を積むたびに「この国をどう変えるか」を考えていた信長公の気配が、ほんのりと伝わってきます。
その重なりが愛おしくて、私は石垣を前にするといつも時間を忘れてしまうのです。

信長が描いた未来都市——政治・文化・流通をひとつの丘に

安土城は、ただの城ではありません。
信長公が「未来の日本」をこの丘の上から描こうとした、壮大な都市計画の一部でした。

  • 政治:重臣の屋敷を大手道に沿って規則的に配置した“見せる政治”
  • 文化:宣教師オルガンチノによるセミナリヨ(キリシタン学校)の創設
  • 流通:中山道・北國街道と琵琶湖水運が結節する国家規模の交通の要衝

それはまさに“近代都市”の原型のようで、
戦国の常識を軽やかに飛び越えていく信長公の気質が、安土には深く刻まれています。

安土城の狂気のスケール——行方不明の「蛇石」の謎

そして安土城を語るうえで欠かせないのが、蛇石(じゃいし)伝説です。

隣の観音寺山から引き上げられたとされる巨大石。
信長公記には、一万人以上が昼夜問わず三日間で引き上げたとあります。

その大きさは、長さ約10メートル、重さ110トン。
引き上げの途中、綱が切れ、150人以上が下敷きになったとも伝わる大惨事です。

そこまでして運んだのに、今はどこにも“姿がない”
私も気になって、安土山をぐるぐる巡りながら探してみましたが、影ひとつ見つからず。

あの巨石はどこへ消えたのか。
説明のつかない“余白”が、この城には静かに残されています。

御幸御殿と大手道——遷都構想を物語る“まっすぐすぎる道”

大手道が天主へ向かって一直線なのも、この城の大きな特徴です。
敵の侵入を防ぐため曲げるのが常識だった時代に、信長公はその常識を覆しました。

その理由のひとつが、御幸御殿の存在です。
本丸直下に置かれたこの建物は、信長公記に「天皇を迎えるための御殿」と記されています。

南虎口の先には、かつて湿地帯や琵琶湖の内海が入り込んでいた可能性が高い場所があります。
私はそこに立った瞬間、ひとつの妄想が広がってしまいました。

——信長公のことだから、南虎口の先の内海に船を並べ、その上を天皇が渡る道をつくったのでは。
水面にきらめく船の連なりの上を行幸する姿を思い浮かべて、胸の奥がわくわくして止まりませんでした。

天主跡で風に吹かれたとき、胸のつかえがすうっと消えた

天主跡に着くと、空がいっきにひらけます。
どこにも遮るものがなく、琵琶湖が遠くで静かに光っていました。

風が強く吹き抜けるたび、自然と深呼吸がこぼれました。
誰にも評価されない時間。誰のためでもない時間。

「まだやり直せる」
その言葉が心の奥で静かにひらいていくのを感じました。

帰り道、夕空の虹にそっと背中を押された

下山して電車に揺られていると、窓の外に虹がかかっていました。
淡い夕光の中にくっきりと浮かぶ一本の虹。

「大丈夫だよ」と誰かに言われたようで、胸がじんと温かくなりました。
もちろん偶然。でも私は心の中でそっとつぶやいていました。

「御屋形様、また登城します」と。

安土城跡を歩くための基本情報(ひとり旅向け)

・最寄り駅:JR安土駅
・登城口:現在は大手道ルートのみ(百々橋口は閉鎖)
・所要時間:往復約90〜120分
・足元:石段が多く滑りやすいのでスニーカー推奨
入山料:700円(現地案内所にて)

ひとり旅でも安心して歩けますが、山道は思いのほか体力を使います。
時間と気持ちに、すこし余白を残して歩くのがおすすめです。

まとめ:焼け落ちた天守の上で、私は静かに息を整えた

しんどい心を抱えたまま訪れた安土城跡。
そこで私は、「あらためて始まっていい」という静かな許しを受け取りました。

安土城は過去の遺跡ではなく、今を生きる私たちの背中をそっと押してくれる場所。
またあの丘へ帰りたくなる——そんなやさしい城です。

参考・情報ソース

この記事を作成するにあたり、以下の公式情報および公的資料を参考にしています。
現地の体験とあわせ、信頼性の確保のため公式サイトを明示いたします。

公式情報は随時更新される場合があります。
登城前には最新の開館情報・イベント情報をご確認いただくことをおすすめします。

あわせて読みたい

コメント