何もしないために六甲山へ|心経岩の前で感覚が戻った静かな時間

心経岩 心を整える旅

何もしないために六甲山へ──心経岩の前で、感覚が静かに戻っていった話

忙しさに追われているわけではないのに、
なぜか気持ちが落ち着かない日が続いていた。

何かを変えたいわけでも、
前向きな答えを見つけたいわけでもなかった。
ただ、少し場所を変えてみたかった。

整えようとすら思っていなかった。
今回は、何もしないために出かけることにした。

少し前までの私は、出かけるとなると必ず「意味」を探していた。
見どころがあるか、得るものがあるか、行ったと言える体験になるか。
何も決めずに出かけることに、どこか不安を感じていた。

けれど今回は、その不安ごと連れていくことにした。
何かを感じなければならない、何かを書かなければならない、
そんな前提を、いったん外してみたかった。

予定を立てないことは、怠けることではなく、
自分の感覚を信じてみることなのかもしれない。
そう思えたのは、出発してからだった。


ケーブルとバスを乗り継ぐあいだに、思考がほどけていく

六甲ケーブルに乗り、バスに揺られる。
街の音が遠ざかるにつれて、頭の中のざわめきも静かになっていった。

窓の外を流れる景色を眺めながら、
気づけばスマートフォンを手に取ることもなくなっていた。

何かを記録しようとも、
誰かに伝えようとも思わない。
ただ移動している、その時間が心地よかった。

ケーブルカーが傾斜を上っていくにつれて、
耳の奥が少し詰まるような感覚があった。
高度が変わるたびに、体がゆっくりと調整されていく。

バスに乗り換えるころには、空気の匂いも変わっていた。
街にいたときには気づかなかった湿り気や、
葉の匂いが、窓の隙間から入り込んでくる。

移動しているだけなのに、
何かを考え続けていた頭が、少しずつ静かになっていく。
行き先よりも、今どこを通っているのか。
その感覚のほうが、はっきりしていた。


山道を少し歩いた先で、空気が変わる

バスを降りてから、少しだけ山道を歩く。
観光用に整えられた道ではなく、
足元に気を配りながら進む必要がある道だった。

歩くことに集中しているうちに、
頭の中で続いていた独り言が、いつの間にか止まっていた。

聞こえてくるのは、風の音と、鳥の声と、自分の足音だけ。
世界が、少し切り替わったように感じた。


心経岩という、人の痕跡

六甲山の山中には、般若心経が刻まれた心経岩がある。
古くから信仰されてきたもの、というよりは、
比較的近年に彫られたものだと聞いた。

それでも、不思議と違和感はなかった。
意味を理解するために読むものではなく、
ただ風景の一部として、そこに在った。

読もうともしなかったし、
何かを願おうともしなかった。
ただ、その前に立っていた。

巨石の前に立つと、距離感が分からなくなる。
近づいても全体が見えず、離れても大きさが掴めない。

人の時間とはまったく違う速さで、
ここでは何かが進んできたのだろうと思った。
動いていないように見えて、
実際には今も風化と浸食が続いている。

急ぐ理由も、留まる理由もなく、
ただその前に立っている時間があった。
何かを理解しなくても、
時間の重なりの中に身を置くだけで十分だった。


六甲比命大善神社と、瀬織津姫という存在

この場所には、六甲比命大善神社がある。
祀られているのは、瀬織津姫とされる存在だという。

瀬織津姫は、大祓詞の中に名が挙がる女神で、
世の中の穢れを川から海へと流し、清める役割を担うと伝えられている。

一方で、古事記や日本書紀にはその名が登場しない。
祓戸四神の中で最初に名前が挙げられる存在でありながら、
はっきりとした輪郭を持たないまま、長く語り継がれてきた神様でもある。

境内には竜神も祀られていると聞いた。
水と関わりの深い存在なのだろうかと思ったが、
ここは川辺ではなく、山の上だ。

周囲には、巨石がいくつも転がっている。
六甲山は、約七千万年前に形成された岩盤が、
およそ百万年前に急激に隆起してできた山だといわれている。

現在も風化や浸食が進み、
ここは「動き続けている巨石の山」でもある。

水、岩、そして長い時間。
何かを説明しきれない感覚が残るのは、
そうした要素が重なっている場所だからなのかもしれない。


活断層を知って、ふと思い出したこと

六甲山について調べているうちに、
この一帯には活断層が多く、
今もわずかに隆起が続いている場所があると知った。

その事実を読んだとき、
一九九五年一月十七日、午前五時四十六分のことを、ふと思い出した。

あのとき、私はこの山の麓にいた。

この山で感じた静けさは、
安心というよりも、
「今ここに立っている」という感覚に近かった。


整うとは、足すことではなく戻ることだった

この日、何かを得たわけではない。
考えが劇的に変わったわけでもない。

ただ、余計なものが静かに落ちて、
元の場所に戻ったような感覚があった。

遠くへ行かなくてもいい。
特別な体験でなくてもいい。

何もしない時間を、自分に許せる場所があること。
それだけで、人は少し整うのかもしれない。

しばらくして、帰ることにした。
何かを「終えた」からではなく、
ただ、そろそろ戻ってもいいと思えたからだった。

山道を引き返しながら、足元の感覚が少し変わっていることに気づいた。
行きは、転ばないように歩くことに意識が向いていたのに、
帰りは、地面を確かめるように踏みしめていた。

自分の足音が、さっきよりもはっきり聞こえる。
風の音や葉の擦れる音も、同じはずなのに、
「聞こえ方」だけが変わっていた。

バスに乗る頃には、少しだけ現実が戻ってくる。
次の予定、今日やること、帰宅後の段取り。
そういうものが頭に浮かんでくるのに、
それが不思議と負担ではなかった。

ケーブルで街へ降りていくと、景色が広がっていく。
遠くに見える建物や道路の線が、少しずつ「生活」に近づいていく。
その変化を眺めながら、私はようやく、
自分がここへ来た目的が「整うこと」ではなく、
戻る感覚を取り戻すことだったのかもしれないと思った。

何かを得たわけではない。
答えを出したわけでもない。
それでも、また同じように、何もしないためにここへ来てもいい。
そう思える選択肢が残っただけで、十分だった。

帰宅してからもしばらく、
あの場所の空気が、身体のどこかに残っているような気がしていた。

特別な感動があったわけでもない。
誰かに話したくなる出来事があったわけでもない。
それでも、何かを詰め込まずに過ごした時間だけが、
静かに積み重なっていた。

日常に戻ると、また忙しさはやってくる。
考えることも、決めることも、変わらずある。
けれど、あの日の山の時間が、
「急がなくてもいい感覚」を思い出させてくれた。

また同じように、何もしないために出かけてもいい。
そう思える場所が一つあることが、
今の自分にはちょうどよかった。

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