高砂の石の宝殿を前にして、思考が止まった
高砂の石の宝殿を前にしたとき、最初に感じたのは「不思議だ」という感覚でした。
驚きとも、感動とも少し違う。
怖さはありません。ただ、目の前にあるものをどう捉えればいいのか分からず、頭が一瞬、完全に止まってしまったのです。
大きな石であることは分かる。
神社のご神体であることも、あとから知れば理解できる。
それでも、最初に立った瞬間には、意味づけが一切できませんでした。
「これは何なのだろう」
その問いだけが、感情よりも先に立ち上がってきました。
観光地に立ったときによくある「分かりやすさ」は、ここにはありませんでした。
説明板を読めば納得できる、という場所でもない。
写真を撮れば満足できる場所でもない。
それなのに、なぜか足が止まり、視線が離れなくなります。
理解できないのに、気になり続ける。
その状態が、思った以上に長く続きました。
最初に見た瞬間、理解する前に思考が止まった
わたしは、いわゆるスピリチュアルな分野に詳しい人間ではありません。
パワースポット巡りをしているわけでもなく、特別な感受性があるとも思っていません。
それでも、この場所に立った瞬間だけは、理屈より先に身体が反応してしまいました。
何かを感じた、というよりも、
「考えようとしても考えが始まらない」
そんな感覚に近かったと思います。
意味を探そうとすると、思考が空回りする。
でも、何も感じていないわけではない。
そのズレが、居心地の悪さとして残りました。
分からないのに、その場を離れられなかった
不思議なのは、怖くもないのに、なぜかその場を離れられなかったことです。
「よく分からないから、次へ行こう」とはならなかった。
むしろ、分からない状態のまま、もう少し見ていたいと思っていました。
観光地でよくある「見どころを一通り確認する」という行動が、ここではうまく機能しません。
見れば見るほど、理解から遠ざかっていく。
それでも、目を向け続けてしまう。
その感覚が、少し不思議でした。
石の宝殿について、現時点で分かっている事実
石の宝殿は、兵庫県高砂市にある生石神社の境内に位置する巨大な石造物です。
現在は生石神社のご神体として祀られていますが、用途や目的は明確に分かっていません。
考古学・歴史学の分野では、祭祀施設説、墓所説、未完成建築説など、さまざまな仮説が提示されていますが、決定的な結論には至っていないのが現状です。
巨大な石が「浮いて見えた」瞬間、目が信用できなくなった
正面に立ったとき、視覚に強い違和感を覚えました。
目で見ているはずなのに、脳がその情報をうまく処理できていない。
巨大な石が、地面から切り離され、水の上に浮いているように見えたのです。
もちろん、理屈では分かっています。
石が浮くはずがないことも、その重さが相当なものであることも。
それでも、「浮いて見える瞬間」が確かにありました。
角度を変えると印象が変わる。
少し離れても、近づいても、現実感が安定しない。
自分の目を信用できなくなる、という体験は、日常ではあまりありません。
なぜ「浮いて見える」のか──構造として説明できる部分
石の宝殿は、周囲の岩盤を深く掘り下げることで、巨大な岩塊が孤立して見える構造になっています。
底部は完全に宙に浮いているわけではなく、わずかな接点で岩盤とつながっていますが、その接点が分かりにくいため、浮遊しているような錯覚が生じやすいと考えられています。
神殿なのか、御神体なのか、呼び名を決められないまま立ち尽くした
目の前にあるものを、何と呼べばいいのか分からない。
それが、この場所で何度も立ち返る感覚でした。
建物のようにも見える。
けれど、中に入ることはできない。
神殿だと言われれば納得できそうになる一方で、石そのものが祀られている存在でもある。
完成しているのか、途中で止まったのか。
そもそも完成形があったのかどうかも分かりません。
問いを立てるたびに、「決めつける材料がない」という事実に戻されました。
文献には何が書かれていて、何が決まっていないのか
『播磨国風土記』には、石の宝殿に関する記述がありますが、製作年代や人物関係には矛盾が指摘されています。
そのため、史実としての位置づけは確定していません。
現在までに四十以上の説が存在すると言われていますが、いずれも決定打には至っていないのが現状です。
説が多すぎること自体が、違和感として残った
説が多いという事実は、多くの人が意味を与えようとしてきた証でもあります。
それでも、誰も決めきれなかった。
その積み重ねが、今の「分からなさ」を形作っているように感じられました。
謎がある、というよりも、
「謎のまま置かれている状態」が続いている。
そのこと自体が、印象に残りました。
裏側に回ったとき、また最初の「これ何?」に戻された
正面から見ているだけでは気づかなかった形が、裏側に回ると現れます。
三角形に突き出した部分。
どうしても、屋根のように見えてしまいました。
もしこれが建物だったら。
もしこれが上部だったら。
そんな仮定が自然に浮かびます。
そしてまた、最初の「これ何?」という感覚に戻されました。
「未完成だったかもしれない」という一つの見方
一部の研究では、現在正面とされている面が本来の底部であり、裏側の突起部分が上部だったのではないか、という説があります。
岩盤から切り離し、引き起こす途中で工事が中断された可能性が考えられています。
行けば分かると思っていたのに、何も分からなかった
正直に言えば、行けば何か分かると思っていました。
けれど、現地に立っても、明確な答えは得られませんでした。
それでも、「行かないと分からない種類の分からなさ」が確かにあります。
事前に調べただけでは体験できない感覚でした。
調査が進んでも「目的」だけが残っている理由
レーザー測量や三次元解析などにより、寸法や形状は数値として把握されています。
それでも、「なぜ作られたのか」という目的の部分は、いまだ解明されていません。
見る前に知っておくと、気持ちが少し楽になること
派手な観光地ではありません。
写真映えを期待する場所でもありません。
短時間で「分かった気になる」場所でもない。
その前提を持って訪れると、戸惑いが少なくなります。
見方を変えると、余計に分からなくなる観察ポイント
正面だけでなく、側面や裏側も含めて観察すると、印象が変わります。
下をのぞき込んだり、周囲の地形を意識したりすることで、「一つの見方に定まらない」ことを体験できます。
それでも、最初の「これ何?」がいちばん正しかった
答えがない状態は、意外と疲れません。
むしろ、考えすぎていた頭が一度止まる感じがあります。
高砂の石の宝殿は、
何かを持ち帰る場所ではなく、
分からなさをそのまま抱えて帰る場所でした。
そして振り返ってみると、
最初に感じた「これ何?」という感覚が、
この場所を体験するうえで、いちばん正しかったのだと思えます。
その場を離れてからも、しばらく頭の中が落ち着きませんでした。
強い感動があったわけでも、何かを理解できたわけでもない。
それなのに、「あれは結局何だったのだろう」という問いだけが、帰り道でも静かに残り続けていました。
写真を見返しても、言葉にしようとしても、はっきりした答えは出てきません。
けれど、分からなかったという感覚そのものが、なぜか消えずに残っている。
その違和感が、あとからじわじわと効いてくるような体験でした。
参考資料(公式サイト)
– 兵庫県立考古博物館 「石の宝殿(高砂市)」
https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/info/index.php?action=PageView&page_id=107
– 公式 兵庫県観光サイト 生石神社(石の宝殿)
https://www.hyogo-tourism.jp/spot/612


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