瑠璃杯附受座はいつ正倉院へ来たのか——13年ぶり出陳と出自の謎を読む【第77回正倉院展】

3日間だけ開かれた正倉院——13年ぶりの瑠璃杯附受座 心を整える旅
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3日間だけ開かれた正倉院——13年ぶりの瑠璃杯附受座と天平の祈り

奈良の秋を代表する文化行事、第77回正倉院展
今年とくに注目を集めたのは、13年ぶりに出陳された「瑠璃杯附受座(るりはい つき うけざ)」でした。

さらに今回は、正倉院展にあわせて正倉院正倉の特別公開も実施。
公開期間は11月1日〜3日の3日間限定
宝物を守り続けた“器”そのものが、ほんの一瞬だけ私たちに近づいた時間でした。


正倉院とは何か——聖武天皇と光明皇后、そして「守る」意思

正倉院宝物の多くは、聖武天皇崩御後、光明皇后が東大寺大仏へ奉献した遺愛品群と深く結びついています。
ただし、正倉院の宝物は「ある一日」に一括で完成したものではなく、長い時間の中で守られ、整理され、ときに再構成されながら今日へ受け継がれてきました。

国家仏教の象徴である東大寺大仏。
その周囲に集められた宝物は、単なる贅沢品というより、祈りの道具であり、記憶の器でもあったのだと思います。


正倉院正倉 特別公開へ——宝物を1300年守り続けた校倉造

3日間限定公開正倉院正倉

正倉院展の会場は奈良国立博物館ですが、私はまず東大寺北側に建つ正倉院正倉へ。
校倉造(あぜくらづくり)の巨大な倉が、静かに、しかし圧倒的な存在感で立っています。

正倉院校倉造

高床式の構造、太い柱、三角材を積み上げた板壁。
湿度を自然に調整し、宝物を守るための工夫が建築そのものに刻まれています。

今回の公開は11月1日〜3日の3日間限定
1300年という長い時間の中で、たった3日。
けれど、この短さこそが、簡単には開かれないものを守り続けてきた厳格さを感じさせました。


瑠璃杯附受座(るりはい つき うけざ)——8世紀、東西交流の結晶

今回の目玉、正式名称は瑠璃杯附受座(るりはい つき うけざ)
制作は8世紀
口径8.6センチ、高さ11.2センチ、重さ262.5グラム

深い瑠璃色のガラス杯は、ガラス自体が西アジアのものと考えられています。
シルクロードを経て東アジアにもたらされ、天平の奈良へ。
この一点だけで、天平文化が「国内完結」ではなく、広い世界とつながっていたことが見えてきます。

そしてこの宝物は、単に“渡ってきた”だけではありません。
受座が付属し、形を整えられ、今日まで引き継がれてきました。


受座の経緯——現在の受座は明治期補修、本来の受座は明治38年に発見

ここが、瑠璃杯附受座をさらに面白くするところです。
実は、現在取り付けられている受座は明治時代の補修によるものとされています。

さらに、本来の受座は明治38年(1905年)古裂(こぎれ)を納めた唐櫃(からびつ)の中で発見された、という経緯があります。

宝物がただ「保存」されるのではなく、
整理され、点検され、ときに補修されながら受け継がれる——。
この事実は、瑠璃杯附受座が東西交流の象徴であると同時に、日本の文化財保存史の象徴でもあることを教えてくれます。


瑠璃杯の謎——これほど有名なのに「出自がはっきりしない」

ここまで語っておいて、実は最大のポイントは別にあります。
これほど有名な瑠璃杯なのに、意外にも出自がはっきりしていないのです。

光明皇后による五度の奉献目録には、ガラス製品が一つも入っていない
つまり、瑠璃杯附受座は「光明皇后奉献品」としては確認できません。

では、いつごろやってきて、どのような経緯で正倉院中倉に納められたのか。
その道筋が、はっきりしない。

瑠璃杯が史料上に明確に登場するのは、1193年(鎌倉時代)になってから。
このときの目録には、24個のガラス製品の記載があり、瑠璃杯もその一つとして名が見えます。

奈良時代でも平安時代でもなく、鎌倉時代にようやく登場する。
意外でしょう。

1193年という時代——武士の世と「守り方」の変化

瑠璃杯が史料上にはっきり姿を見せるのが1193年(鎌倉時代)という点も、私は気になります。
平安末期から武士の世へ移り、政治の重心が大きく動いた時代です。

天皇や皇族、公家社会の権威が、かつてのかたちのままでは保ちにくくなっていく。
世の中が物騒になり、価値あるものほど「見えないところで守る」必要が高まっていった。
そんな空気があったとしても不思議ではありません。

もしかすると、瑠璃杯のような希少な舶来品は、単なる鑑賞品ではなく、
皇室や公家にとって“威光”や“記憶”を支える、神器のような存在感を帯びていたのかもしれません。

そう考えると、鎌倉期の目録にガラス製品がまとまって現れることは、
宝物の所在や管理を「改めて整理し直す必要」が生じた結果とも読めます。
時代の揺らぎが、宝物の“居場所”を固定した——そんな見方も成り立つのではないでしょうか。


なぜ奉献目録にガラスがないのか——「書かれない」可能性を考える

光明皇后による五度の奉献目録にガラス製品が見えない——この事実は、瑠璃杯の来歴を語るうえで強烈です。
ただ同時に、私はここに「記録がない=存在しない」と短絡できない難しさも感じます。

目録は、ある目的のもとに作られた「記録」です。
その目的から外れたものは、意図せずとも漏れることがある。
あるいは、当時の分類や価値観の中で、別の扱いになっていた可能性もあります。

たとえば、奉献品としてではなく、宮廷の管理下で特別に保管されていたもの。
あるいは、儀礼や饗宴の場で用いられ、一定期間は「用の器」として動いていたもの。
そうした品は、奉献の枠組みとは異なるルートで、後に正倉院へ収蔵された——そんな道筋も想像できます。

瑠璃杯は、美しすぎる器です。
「宝物」と「実用品」の境目を軽々と越えてしまうような魅力がある。
だからこそ、どこかで“目録の外側”を歩いていたのかもしれない。
そう思うと、史料の空白がただの欠落ではなく、物語の余白に見えてきます。

ややロマン寄りに——「落とさないで!」と言いながら見ていたのかもしれない

もしかしたら、奈良時代や平安時代、宝物として天皇や皇族が身近に置いていたものなのかもしれません。

だって、きれいでしょう。
これだけ貴重で美しいものを持っていたら、きっと誰かに見せたくなる。
こっそり、自慢したくもなる。
これ、人間の心理ですよね。

そっと手に取りながら、
「落とさないで!」なんて言い合いながら眺めていたのではないか——
そんな場面まで想像してしまいます。

そして平安末期から武士の世の中になり、物騒で、
天皇の権威や威光がかつてのものより薄まっていくなかで、
皇室や公家が“神器のような存在”として、正倉院へ納めていったのではないか……。
そんなふうに思ったりもします。

もちろん確証はありません。
けれど、美しいものを守りたくなる気持ちは、きっと昔も今も変わらないはずです。


奈良国立博物館と奈良の秋——「交差点」としての奈良

奈良国立博物館の屋根越しに見える東大寺大仏殿。
時間が重なり合う景色です。

奈良東大寺前の賑わい

奈良公園は賑わい、海外からの来訪者も多く見かけました。
1300年前、西方のガラスがこの地に辿り着いたように、
今もまた、奈良は世界から人が集まる“交差点”なのだと感じます。

近鉄奈良駅中華料理店百楽からの風景

食べたいものをちょこちょこ限定ランチ

鑑賞後のひと息まで含めて、正倉院展は「一日まるごと体験」になります。
展示室で見た青を思い出しながら、奈良の町を歩く時間もまた、余韻そのものです。
中国製受座にちなんで、遅めのランチは近鉄奈良駅上の中華の老舗百楽で。好きなものをちょっとずつがうれしい。

それにしても——「よく割れなかった」ガラスの奇跡

ガラスは、金属や木に比べて、圧倒的に繊細です。
衝撃に弱く、落とせば割れる。温度差でも欠けることがある。
まして1300年という時間の中には、移動もあれば、修理もあり、社会の大きな変動もありました。

それでも瑠璃杯は、いま私たちの目の前で、あの青を保っている。
これはもう、保存の技術だけでは語り切れないものを感じます。

きっと、誰かが大切に扱ったのです。
見せたくなるほど美しいからこそ、手渡すたびに慎重になって、
「落とさないで!」と言い合いながら、そっと、そっと守ってきた。

そういう、人の手の温度が積み重なって、
ガラスは1300年を越えたのではないか——私はそんなふうに思います。



参考資料・関連リンク

まとめ|3日間と1300年、そして「みんなに見せたくなる」青

11月1日から3日までの、わずか3日間。
けれど、その背後には1300年という時間があります。

瑠璃杯附受座は、東西交流の象徴であり、保存の歴史の象徴でもある。
そして何より、見せたくなるほどの美しさが、人を動かしてきた宝物なのだと思います。

だって、きれいでしょう。
だから守られた。
だから残った。
そして今、また誰かに見せたくなる。

瑠璃杯の青は、1300年を越えて、私たちの心に静かに触れている。
だから今年、私もまた、この青を、みんなに見せたくなったのです。

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